小さい出会い、長い付き合い vol.3 「ミシン台と海色の書斎」
惹きつけられるように、何気なく偶然出会った“もの”が、生涯の相棒になったり、特別で忘れられない贈り物になったり。そんな、不思議な「ものとの出会い」をエッセイストの中前結花さんが綴る連載エッセイ「小さい出会い、長い付き合い」。今回は、お気に入りの書斎を作ったお話です。
これまでわたしが勤めた会社にはすべて、「ハンガーラック」というものがあった。
急な外出のためのスーツや、着てきたコートなんかをそこに吊っておくのだ。しかしわたしはこれを1度たりとも使ったことがなかった。
ダラリと垂れるロングコートも、いつも椅子の背中や膝にかけておくようにしていたから、裾はすぐに汚れてしまう。
けれど、10年ほどの会社員人生のなかで、わたしが自宅からハンガーを持っていくことは結局1度としてなかった。
思い返せば、どの会社にも給湯室があって、そこに自分のマグカップを置いておく慣例もあったけれど、やっぱりわたしが自分のマグカップを会社に持っていくことはなかった。
そんなだから、他人の家に着替えや洗面用具を置いてくる、ということもない。
「まだ居場所ではない」ような、「いつ去るともわからない」ような、そんな気持ちがどんな場所に対しても常に心にあった気がする。
片膝を立てているような、どこにもペタンと落ち着いて座り込むことのないような、どこにいてもそんな自分をいつも感じていたのだ。
そしてそれは、困ったことにこの部屋に越してきてからも同じことだった。
恋人との共同生活を始めたけれど、長らく使ってきた1人用の掛け布団もシーツもわたしはクローゼットに仕舞い込んで、捨てることができずにいた。
長い時間うんうんと唸りながら物を書くような仕事をしているのに、仕事机を作ることはせずに、リビングの片隅でうんうんとやっていた。
靴は冬ものしか並べず、夏や秋の洋服はまだ段ボールを開けてもいない。
「本当に座り込んでいい場所なのだろうか……」
いつもそんなことを傍で考え、どこか「仮暮らし」のようなことをこっそりひとりで続けてしまっている、ずっとそんな気分で過ごしていたのだ。
けれど、出会いは突然やってきた。
それは、きれいにオイルの塗られた古材のミシン台だった。
惚れ惚れとするようなデザインで、わたしはどうしても自分のものにしたくなった。そして、どうしてもそれを「自分の席」にしたいと思ってしまったのだ。
しばらく経ってもその気持ちは変わらなかった。
思い切って安くはないミシン台を手に入れると、今度はそれに似合う椅子も欲しくなった。茶色いレザーに包まれたアンティーク調のものを手頃な価格で手に入れると、今度は「仮に」と本なんかを積んでいたワゴンも、ミシン台に合わせて自分で塗装をしたくなった。
そうして気づけば、お気に入りに囲まれた小さな「書斎」が部屋の片隅に完成しようとしていた。窓向きのその席は、腰を下ろすだけで気分が晴れやかになったし、何よりも「おお、ここだったか」という心地がした。
けれど、あと一歩だった。なにかもうひとつ、わたしはそこに“目をやりたくなるもの”を加えたいと考える。できれば、ちょっと華やかでそれでもしっくりと馴染むものがいい。
そして「そうか、花でも挿せたらいいのにな」と思うのだった。
生まれ育った兵庫には、「丹波焼」という伝統工芸があった。
特に青や緑、鳶色(とびいろ)が有名で、なかでも青みが深い緑がわたしはすきだった。さりげない濃淡が海みたいに見える。
兵庫という縁で「こんな花器がありますよ」と仕事先の人におしえてもらったのだ。「ああ、これだ」とわたしはひとりごと。
ポン、と置いてみるとそれはその場所にしっくりと馴染んだ。器より深い色の薔薇のドライフラワーを挿すと、もう本当にぴったりだったのだ。
好きなお店で見つけた、小物入れを横にそっと添える。
「こんなものでいいのかしら」
数百円で買った、なんでもない小皿だったけれどふたつはとてもお似合いだった。
そうっと座ってみると、そこには何の違和感もなくて、とてもとても心地が良かった。ようやく、“わたしらしい席”が完成したのだ。
なんだか久方ぶりに「これが自分の場所だ」と心の底から思うのだった。
いつも、「まだ自分の居場所ではない」そんな気がして本当は不安だった。
気に食わないのではない。特別に居心地が悪いのでもない。ただなんとなく「こんなわたしでいいのかしら」と会社にいてもどこにいても、それが気がかりで仕方なかった。
ひとりで暮らす自宅だけが、そんな心配から解放される唯一気楽でやさしい場所だったけれど、彼と暮らすこの部屋はやっぱり「こんなわたしでいいのかしら」で満ちていた。
それが徐々に徐々に潮が引くように、薄れていくのがわかる。ミシン台を仕事机にして、花を飾って、小皿を添えた。それだけで、なんだか部屋を見違えるように思った。
けれど —— 。
それを変えてくれたのは、本当にミシン台だったろうか?
そのミシン台を「いいね」と言って、一緒に部屋へと運び入れてくれた人がいた。
「へえ、同じ兵庫生まれなの」
と話を聴いて、まじまじとその器を見つめてくれる、そんな人だと改めてわかったからではなかったろうか。
今日も外は晴れて、わたしの机は気持ちがいい。
「丹波焼」には季節の花も、みずみずしい緑も、くすんだドライフラワーもよく似合った。
傍に置いた小皿には、大事な指輪を入れた。
「こんなものでいいのかしら」とは、もうちっとも思わない。
中前結花
エッセイスト・ライター。元『minneとものづくりと』編集長。現在は、エッセイの執筆やブランドのコピーなどを手がける。ものづくりの手間暇と、蚤の市、本とコーヒーが好き。
Twitter:@merumae_yuka
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